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しがない人生

四季の移ろいを背景にして、 ヒロインの情感が匂うような小説をupしたいと思います。   風藤 瞬

山笑ふ

山笑ふ・山滴る・山粧ふ・山眠る
「山笑ふ」は春、「山滴る」は夏、「山粧ふ」は秋、「山眠る」は冬の季語であるという。
浅学な私は、最近、この詞(ことば)を知った。
出典は、南宋の画家、呂祖謙の『臥遊録』なのだそうだ。

山笑ふ。
どうもピンとこなかったが、新緑の山を眺めているうち、ああ、その通りだ、と合点がいった。
可笑しくて、笑うのではない。
若々しい命のほとばしり、今、生きている歓びに、自然と笑顔になる。
生きとし生けるもの、の讃歌であるに違いない。

風薫る五月。
樹々の若葉は、キラキラと輝き、そよ風が心地よい。
一年のうちで、一番、良い時期だ。
が、桜の花の咲く頃、若葉であった楓は、緑の色を濃くして、早や、夏の匂いを漂わせている。
季節は足早に、夏へと向かっている。

昨日、山梨県の河口湖へドライブしたが、そこに夏の匂いはなく、新緑の真っ盛りであった。
自生の藤の花が、山のあちこちにクリスマスツリーのように、咲き乱れている。
車の窓ガラスを落とすと、若緑色の風が、頬を撫でていく。
ああ、山が笑っている。
湖畔には、そう実感させる世界があった。

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ミュシャ展を観て

六本木ヒルズの森アーツセンターギャラリーで開催中のミュシャ展を観た。

アルフォンス・ミュシャ。
オーストリア帝国のモラビィア、現在のチェコに生まれ育った。
やがてパリに行くが、無名画家であったのを、ベル・エポックの象徴と呼ばれた女優、サラ・ベルナールのポスターを描く幸運に恵まれ、一躍、有名になる

ミュシャの絵は雑誌で知っていても、一堂に会した作品に接するのは、これが初めてだ。

何と美しく、何と魅惑的なのだろう、ミュシャの描く女性は。

作風はアール・ヌーボー。
浮世絵の線描、琳派の装飾性の影響が大であろうこことは、一目で分かる。
平面的な花々を文様化したバックに、独りの女が浮き上がる。
うっすらと紅を刷いたその顔だけが立体的に見え、立体的であるが故に、哀しいくらいに美しい。
モノトーンのような感じを受ける。
金や銀、紅、白、その程度の色しか使っていない。
かつて、プロカメラマンが使用したコダックのエクタクロームの鮮やか過ぎる発色とは対極にある。
唇の紅色は、エクタクロームに比せば、くすんでいる。
が、モトトーン調の場面だから、鮮やかに映える。
そして、衣装の白が輝いて見える。これも、画面がモトトーン調であるからであろう。
当時のリトブラフは、エクタクロームのような発色は不可能であったのか。
それとも、ミュシャは、モトトーン調を好んでいたのか。

小説家・水上勉の世界に似ている。
水墨画のような世界に、一点、紅い点がある。その紅い点とは、美しいヒロインだ。
くすんだ紅であるのに、世界がモノトーンであるが故に、燃える紅色に見えるのである。
その哀しい美しさに、ミュシャの描く女性は似ている。

装身具の細やかな描写。いや装身具だけではない、髪に飾った花、地の文様、全てが細密画のようである。
細密画を思わせるからこそ、画面には豪華な雰囲気が漂うのであろう。

小説家は、文章が上手でなければ、読者にそっぽを向かれる。
画家も、デッサンが上手でなければ、見る者を感動させる事はできない。

ミュシャの描く線の素晴らしいさ。
これを、どう表現したらいいのだろう。
本当に、惚れ惚れとする線を描く。

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春の一日

今日は一日、春の陽気であった。というより初夏の陽気であったのかも知れない。
ラファエロ展を観に、上野の国立西洋美術館に行ってきたが、寒さの苦手な私には、その暖かさがすこぶる快適だった。
春にしては、空に霞はなく、冬の青空であったのが、清々しい。

さて、ラファエロ展。思ったより作品が少なかったのは、残念だが、実物を観ることが出来たことに感謝したい。
パソコンを打つ手元に、ラファエロ展の入場券がある。そこには、「大公の聖母」が印刷されているが、実物の迫力はない。
目を閉じると、展示されていたあの絵が、鮮やかに蘇ってくる。
慈愛に満ちていて静謐である聖母の表情。今にも動き出しそうな幼児のイエス。
やはり、実物は素晴らしい。

ラファエロ展の入場券で常設展も観ることが出来た。
印象に残った絵画が二点あった。
ルノアールの「帽子の女」と藤田嗣治の「座る女」である。
ルノアールの方は、白い帽子と白いドレスの娘の上半身。
これは「真珠色の時代」と言われた時期の作品であるという。
横を向いた娘が、突然、正面を向きそうである。向かれたら、私はドギマギしてしまうだろう。
藤田嗣治の方は、袖なしのワンピースにハイヒールを履いた社交界の女性の肖像。
バックは琳派を思わせる金地である。独特の乳白色の肌の色と、日本画のような細い線が、官能的だ。

美術館を出てから、不忍池の畔にある、「旧岩崎邸庭園」へ行った。
三菱創設者・岩崎家の本邸である。明治29年に建てられた洋館はジョサイア・コンドルの設計という。
外観の素晴らしさもさることながら、内装の見事さに圧倒される。
手すり、柱、壁紙、天井、一流の職人によるそれらの仕事は、贅を尽くて美しい。
そして、天井の高さに驚いた。現代の部屋の2倍はありそうだ。

箱根に戻ったのは、夜7時。
気温13度。暖かい夜であるが、2階から西の空を見上げると、山の端には三日月が浮かび、星空であった。
オリオン座を中心に星々が瞬いている。
夜間飛行の灯が、オリオン座の下を通過していったが、すぐに次の夜間飛行が、三日月に向かっている。見る見る距離は縮まる。ぶつかるのか、と思った瞬間、ギリギリ三日月の真下を過ぎて行った。
視線を落すと、真っ白な満開の梅の花が、暗闇にぼんやりと浮かんでいた。

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方丈記を読んで

ゆく河のながれは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。
よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつむすびて、久しくとどまりたるためしなし。
世の中にある人と梄(すみか)と、またかくのごとし。

有名な『方丈記』の冒頭である。
ちくま学芸文庫『方丈記・鴨長明、浅見和彦 校訂・訳』では、
「古来、古典文学の冒頭文には名文が多いが、『方丈記』の書き出しほどの美しさは他にない。」
と評している。

鴨長明の父親は京都・下鴨神社のトップの地位にあったが、33歳あるいは34歳で急逝してしまう。
長明18歳の時であったという。
父親という後ろ盾を失って、長明の運命は暗転していく。
浅見和彦さんの著作から引用すると、
「長明は父方の祖母の家で30歳すぎまで過ごしていたらしい。しかし、理由はわからないが、長明はその家を出ざるをえなかったようだ」
「祖母の家に住む女性の誰かと入り婿のかたちで結婚し、二人の間には子供もあるいはいたのかもしれない。
しかし、何か状況に重大な変化があったのだろう。 ー略ー 
はっきりいえることは、去りがたい祖母の家を長明が30歳すぎに退去したこと、鴨川の河原近くに居屋を設けたこと、 ー略ー 
50歳の春に出家したこと、洛北の大原に5年間、居住したこと、60歳ぐらいの時に洛南の日野に方丈の庵を建てて庵住したことなどである」

と聞くと、誰からも相手にされない無名の存在だったような印象を受けるが、単なる世捨て人ではなかったらしい。
藤原俊成・定家の親子と一緒に、勅撰和歌集『新古今』の編纂委員に選ばれて、後鳥羽上皇に、その才能を認められていたという。
また鎌倉で、第3代将軍・源実朝とも面談している。
鎌倉から戻った1212年、『方丈記』を書き、その4年後、62歳で他界する。

『方丈記』の冒頭文に親しんだのは、中学か高校の教科書以来であるが、この歳になってみると、この文章の素晴らしさがよく分かる。
清少納言の『枕草子』、兼好法師の『徒然草』。そして『方丈記』、日本三大随筆である。

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小説『落城の時』最終章をアップ

『落城の時』 作 ・風藤 瞬

最終章

 土塁と言うより、土を掻き揚げた城壁と言ったほうが、イメージしやすい。その城壁の内側には幾つもの櫓が築かれ、それぞれに何本もの幟が旗めいている。櫓からは城壁とセットになった空堀が見下ろせ、近づく者には、容赦なく鉄砲を撃ち込み、矢を射込む。
 その日は、梅雨の合間の晴天になった
 袖なし羽織に伊賀袴、大小を差した姿で、新吾は土塁の天辺に姿を現したが、あっと思う間に、飛び降りた。
 飛び降りれば、秀吉軍の天下である。だが、九つの出入り口と違って、占領軍の警戒はわりあい緩い。六間(十メートル強)もの高さがある城壁から、人が飛び降りるとは思わないし、降りた所は地表ではなく深さ六間の空堀である。
 障子堀と呼ぶ北条氏独自のもので、堀の中に人一人が通れる畝が等間隔で並んでいる。堀の中に畝があるものだから、敵はこれ幸いと渡ってくる。しかし、一列でしか通れない。そこを、城方の鉄砲や矢が一人ずつ狙い撃ちする。後戻りしようにも、延々と続く兵の列に押し返される。逃れようと堀に飛び込めば、そこは蟻地獄のようになっていて、独力で這い上がることはできない。
 その畝の上に、新吾はひらりと飛び降りた。
 新吾は辺りに人目がないのを確かめると、悠然と歩き始めた。釣竿を肩にし、魚篭を腰に下げている。
 武家姿でいたら、誰何されそうなものだが、秀吉軍の全ての武士が鎧兜を着ているわけではない。まさか小田原方の武士が堂々と歩いているとは、誰一人思わず、返って疑われない。
 新吾の役目は、敵情視察である。
 外側から見ると竣工したかのように装った一夜城が、笠懸山の頂きに見える。山腹から山裾には諸将の付城が点々とあり、一山が要塞と化した感がある。
 そんな風景を眺めつつ、笠懸山が海に落ち込む所、早川の磯まで来ると、岩場には釣り人の姿が、ちらほらあった。
 初老の小柄な男が、釣り糸を垂れている。服装から察すると、商家の隠居であろうか、別荘から海を眺めているうち、不意に釣りがしたくなり、出てきた、といった風情である。
 新吾は、海中から突き出た子岩を目掛け、身を躍らせた。片足がその子岩に触れるやいなや、新吾の体は再び中空にあり、初老の男と二間(三・六メートル)ほど離れた岩場へ、舞い降りていた。
「見事なものですなあ。貴殿はいずこのご家中でござっしゃる」 
 と男が声をかけてきた。正面からみると、貧相な顔付きである。が、声は大きく潮風の中でも良く通る。
 新吾はつい、いつもの調子で跳んでしまったことを悔やんだ。忍者であることが露見してしまうではないか。
「細川にござる」
「ほう、細川家とな。忠興公は、良きご家来をお持ちじゃ」
「時に、貴殿は、城下にお住まいでござるか」
「いやいや、小田原ではござらぬ。尾張の在にござるよ」
「尾張と。よく聞けば、尾張訛りがござるの」
「そう言う、貴殿には、相州訛りが、いくらかありそうじゃ」
 新吾はギクッとした。この男、何者であろう。
「父親が相州の産である故」
「お父上が、相州の出なら、この絵師をご存知あるまいか」
 懐から取り出した畳んだ紙を、男は広げて見せた。 
 新吾は、あっと声を上げていた。何とその絵は、父、新三郎の描いたヴィーナス像であった。衣をたくし上げ、豊かな尻を露にして、水に映る己が姿を眺めている、あの絵であった。
「おお、ご存知じゃな」
「我が父でござる。父が描いたものでござる」
「なんと、貴殿の父と。さようか、これは奇遇じゃ。お父上に会わせてもらえぬか」
「二十二年前、亡くなりました」
「亡くなられた。そうであったか」
 新吾を凝視したまま、男はそう言ったが、落胆した表情で虚空に目を転じると、
「さようか、生きてはおらぬのか。いや、残念じゃ。生きていれば、わしの為に描いてほしかった」
 男は絵を丁寧に畳むと、押し頂くようにして懐にしまった。
「お聞かせ願えぬか。その父の絵を、貴殿は、いずこで手に入れたのか」
 男は、江之浦の大野五郎兵衛から譲り受けたと言った。大野五郎兵衛といえば、秀吉が鯛引きを楽しんだり、その庭の数奇屋で茶を楽しんだりしている江之浦の分限者である。その五郎兵衛と父はどういう関係であったのだろう。父の絵はどういう経緯で、五郎兵衛の手に渡ったのであろう。
 それにしても、五郎兵衛の名が出ると、さすがにいい気はしない。いや、不愉快である。大野五郎兵衛邸へ向かう秀吉一行を、襲撃しようとして、失敗したばかりなのだから。
 新吾は男の顔をまじまじと見た。秀吉と対面したことはないが、京都勤務の時、輿に乗った秀吉の行列を幾度か見ている。
 この男、秀吉か。しかし、まさか関白太政大臣が、一人の共も連れず、釣などしているわけがない。だが、若い頃は野盗の群れに身を投じたこともあるという。信長公のもとでの足軽時代には、戦場の最前線を駆け回り、生きるか死ぬかの毎日であったろう。ならば、独りで歩き回るくらいの豪胆さは持ち合わせていよう。
 いつの間にか、男の一間(一・八メートル)向こうに、一人の釣り人がいた。時折、鋭い視線を投げてくる。新吾の一間向こうにも、いつの間に現れたのか、釣り人が一人いた。菰にくるんでいるのは、太刀であろう。
 新吾は背中に殺気を感じた。半弓に狙われている。甲賀の猿飛佐助に違いない。一歩でも、新吾が動けば、毒矢が飛んでくるだろう。
「狩野永徳のように、金をふんだんに使った襖絵を描いてほしかった。いや、題材は山水ではなく、女人じゃ。
金泥の地に、雪のように肌の白い南蛮の貴婦人の裸身を、描いてほしかった。
 さぞや、豪華で絢爛な座敷になるであろう。諸大名をその場に呼んだら、びっくりして腰を抜かすであろうよ。
 永徳と並び称せられる絵師になったであろうに。二十二年前に、お亡くなりなっていたとは。残念じゃ。誠に残念じゃ。
 お父上の名は何と申される。 お教え下され」
「風祭新三郎と申す」
「して、貴殿の名は?」
「風祭新吾」
「新吾殿、細川の家中というのは嘘じゃな。そなた、風魔じゃな」
 新吾の面から血の気が引いた。
「いや、答えずともよい。この城攻めも、間もなく片付くであろう。そうしたら、新三郎殿の墓参りをしたい。これほどの素晴らしい絵に巡り合えた幸せ、このお礼を、新三郎殿の墓前にて言上仕りたい。その時は、新吾殿、案内してほしいのだが、如何であろう」
 新吾の胸を熱いものがこみ上げた。思わず跪くと、岩場に額をすりつけていた。
「喜んで……」
「さようか、それを聞いて安心いたした。いや、今日は、良き日じゃ。さて、帰るといたそう」
 新吾が頭を上げた時、もう男の姿はなく、釣り人二人もいなくなっていた。背中を刺した殺気も嘘のように消えていた。
 蛇足であるが、「金をふんだんに使った襖絵」に触れたい。
 現代の照明は明るすぎ、光も均等にあたる。この状態で、金の襖を見たら、それこそキンキラキンで、いかにも趣味が悪い。
 戦国のこの時代、植物油か魚油の灯りが一般的であるが、秀吉なら高価な蝋燭を惜しみなく使うであろう。
 油にしろ蝋燭にしろ、現代の照明のように光が万遍なく届くわけではない。灯りの近い場所は輝く金色だが、遠い場所は暗く重い金色になる。総体的に、現代人が目にする金色よりも、くすんだ色調の金色に見えるであろう。
 襖が開いて空気が流れれば、蝋燭の光も揺らぐ。その揺らぎによって、金色も妖しく煌く。その煌きは、暗く沈んだ金色を、ごくわずかな範囲で、華やかに輝かせる。居合わせた人は、官能的な美しさを、そこに見出すであろう。
 昼間の見え方はどうか。長い庇で日差しが遮られる為に、座敷には間接光が溜まっていて、縁側から遠くなるにつれ、金色は暗く沈んでいく。
 美術資料として座敷を撮影すれば、光が隅々まで均等になるようライティングする。そうして撮った写真を教科書で見るから、キンキラキンの印象を受けてしまう。ところが、実際の座敷には、明るさの濃淡がある。当時の人は、その濃淡の中で、金の襖を眺めていたのである。
 さて、話を元に戻そう。
この一ヶ月後、小田原城は、家老・松田憲秀の寝返りなどによって自滅し、五代目氏直は、織田信雄の家臣、滝川雄利の陣所に投降すると、自らが切腹する代わりに将兵の命は助けてほしい、その旨を関白殿下にお伝え願いたい、と申し出た。
 それに対して秀吉は、実権を握っていた四代目氏政とその弟、氏照、そして三家老のうちの松田憲秀と大道寺政繁の二人、都合四人を切腹させた。氏直の命は助け、高野山に追放処分とした。
多少の小競り合いはあったものの、戦いらしい戦いは一度もなかった小田原城は、秀吉軍に包囲されてから、わずか三ヶ月で落ちてしまった。北条五代百年の幕切れにしては、何ともあっけない。
 籠城していた者は、全員退去させられたが、武装解除して丸腰になってみると、占領軍の槍の穂先の煌きが、俄かに恐ろしく思え、昨日まで勇を誇っていた者でさえ、我先に逃げ出した。
 関八州に城を持つ武将は奥方を人質として、小田原城に住まわせていたが、その奥方の多くが、悲惨な目にあった。
 目端の利く侍女は、金目の物をくすねると、早々に逃げ去った。世間知らずな奥方や姫君は、ぐずぐずしていて、気がつくと独り残されてしまい、乱入してきた占領軍の武将に犯されたうえ、着のみ着のまま放り出され、いずこともなく落ちていった。
 風魔一党も解散した。
 秀吉は、徳川家康を関八州に国替えさせ、江戸を本拠地とするよう指示した。それから、
「小田原城は、大久保忠世に与えるが良かろう」
 とも言った。
 大久保忠世は家康の家臣であるから、家臣の誰を小田原城主にしようと、家康の勝手であり、秀吉に指図をされるいわれはないが、天下人たる秀吉には抗えない。秀吉の言に従った。
 この時、秀吉は五十三歳。輝ける生涯の頂点は、この時期であったのかもしれない。
 天下人への階段を駆け登るきっかけとなったのは、八年前の本能寺の変である。そして、この小田原攻めから八年後、伏見城の病床において秀吉は息を引き取る。旭日が八年であれば、落日も八年であったのは、何かの因縁であろうか。
 秀吉の死後、諸侯は徳川家康の顔色を伺い、やがて天下は家康の手に移る。
 本題から逸脱したようだ。もう一度、話を戻そう。
 秀吉は、風祭家の菩提寺を訪れ、新三郎の墓参をした。その時、「余の家臣にならぬか」と新吾は勧誘されたが、母一人を残して、京に上る決心がつかなかった。
 結局、武士を捨て、百姓として母と共に生きる道を選んだ。
 風祭家は地主であるから、新吾の扶持が無くなったとて、食うには困らない。
 一番喜んだのは、四十歳になる母、美代であった。夫を殉職させているだけに、一人っ子の新吾には命を全うしてほしい、と常々願っていた。
 結婚し、幼子と縁側に座る新吾の姿が、美代には見えるようであった。
 もう、二十三歳。この時代、まだ独り身なのは珍しい。早く、嫁を探してやらねば、そう美代は思うと、身内から力が漲ってくるのだった。
 カナカナカナ。
 蜩の鳴き声に気づき、ふと箱根山を見上げると、大空は茜色に染まっていて、一番星がキラキラと輝いていた。
「明日も、晴れね」
 美代は小さな声で言ってみた。
                          
終わり

この物語は、風魔物の4作目です。
新吾の父親、新三郎が主人公である『永禄十一年のヴィーナス』
夏が登場する『花曇』
そして、風魔の始祖を描いた『風魔小太郎』
どうぞ、こちらもご覧下さい。

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